句碑めぐり

  2026.05

松山市北条の県道179号湯山北条線(今治街道)沿いに西の下大師堂がある。大正6年(1917年)、高濱虚子は何十年振りに風早柳原西の下に遊ぶ。西の下大師堂風早八十八ケ所47番。

この松の下にたたずめば露のわれ  高濱虚子  

よく手入れされた大師堂と虚子の胸像

昭和天皇御手植えの大松

”この松の下にたたずめば露のわれ” の句碑

道の辺に阿波のへんろの墓あはれ  高濱虚子  

阿波へんろとだけ彫られた墓碑、いまだこのへんろ墓には水を誰かが毎日のように替えて供えているようだ。

高縄の冥加に透ける堂の松  河野伊葉

 

 

時期が少し早いのだが以前にも公開した市内の庚申庵へ有名なふじの花を見に行ってみた。やはり白ふじがぽつぽつと咲いていた程度でむらさきの野田ふじはまだ少し先らしく庭でお茶だけ頂いて帰りました。

新樹に囲まれた庚申庵

白いふじの花

  

ぼたんが一輪満開 職員の方が今日咲きましたとおっしゃっていたので写真に収めました。

 

 2026.04

粟井坂と風早大師堂

松山北条地区にある子規・漱石生誕百十年記念碑, 瀬戸内海沿いにある古い遍路道であった粟井坂に大師堂がある。ここからもう少し海沿いを北へ行くと高濱虚子の幼少の頃過ごしたとされる北条市内に入る。

しほひがた隣の国へつづきけり  正岡子規

釣鐘のうなる許に野分かな    夏目漱石

この子規の句は広島にての作句らしい。

海沿いに子規・漱石二句一体の句碑が一基

 

涼しさや馬も海向く粟井坂  正岡子規

現在の粟井坂を淡井坂と呼んでいた時代もあった。この地名、大師堂の道路挟んで向かい側に大きな井戸がありふつふつと泡が出るところから【粟乃井】という地名が付されその名の由来となった。

背景に映っている山は高縄山系の一部

 

 

山を背に大師座像

 

 

  2026.02

 

江戸、明治の頃東京を結ぶ拠点となったのが三津浜だ。今回はこの三津から高浜方面へ!!先ずは三津の高名な神社である厳島神社より。

伊予鉄道三津の駅から海の方に向かって徒歩10分くらいのところにあります。神社内には表忠碑と彫られた巨大な庵治石の石碑があり,まずその大きさに圧倒されてしまいます。日露戦争の際に三津から出兵した人の名前がその裏側に彫られています。揮毫は陸軍大将の秋山好古氏によるものであると伝わっています。

秋山好古氏揮毫の表忠碑

注連石(しめいし)彫られている文字は”年豊人楽”明治18年に建立。揮毫は神主であり書家の三輪田米山、石工は道後温泉養生湯の湯釜を手掛けた石工吉村右三郎の彫りだそうです。

ここから子規句碑のある三津の港へ。汽船乗り場の正面にⅠ基ありました。

十一人一人になりて秋の暮  正岡子規

 

子規が上京する際見送りに来た10名の友人に向けて詠んだ句。子規や漱石、虚子ら多くの俳人たちはこの三津から汽船に乗り神戸に向かい鉄道に乗り換え東京を目指しました。

この先海側に進むと松山市水産市場となり、その門を入ってすぐのところにとてもユニークな句碑をみつけました。

われに法あり君をもてなすもぶり鮓  正岡子規

ふるさとや親すこやかに鮓の味    正岡子規

われ愛すわが豫洲松山の鮓      正岡子規

明治25年夏目漱石が初めて来松した際、子規の母八重がもてなしたのがこの料理の松山鮓(ちらし寿司)であった。漱石は大変に喜ばれたそうです。句碑には子規に見立てた野球少年がアレンジされている。句にある”もぶり鮓”とはあまり聞かないが地方の方言らしい。     句碑について:松山水産市場協議会が水産市場25周年と小説”坊ちゃん”発表百年を記念して建立したもの。

渡しで渡る観月山

この山には廃寺、堂宇、庵もあり昔は登れば景観もよかったそうだが今は観光の場所としては整備されていないので登る人は殆どいないようで・・、さくらがちらほら咲く頃になるとさらに美しい眺めになります。

次に高浜方面へ!

沖合興居島の手前に四十島【ターナー島ともいう)が見える。

初汐や松に浪こす四十島  正岡子規

寒潮のあふるるちから四十島  河野伊葉

きさらぎの岩肌ひかる四十島  河野伊葉

春を待つ海沿ひを踏む靴の音  河野伊葉